ご飯を食べない息子のしつけから、夫婦で教育論を語り合った日のお話

ご飯を食べない息子のしつけから、夫婦で教育論を語り合った日のお話

食事する子供

いつもの朝ごはん。ご飯できたよーの合図を出しても「キョウリュウジャーが見たい」と駄々をこねて食卓に来ない息子。

キョウリュウジャーはご飯のあとに見よう、一時停止して食べ終わったら見よう、など提案するも「嫌だ!」の一点張り。

 

みかねた旦那がテレビを消して「ごはん食べるよ」と叱る。

予想通りギャン泣きする息子。正直、私はあと数十分テレビを見せて丸く収まるなら見せたほうが楽なのに…と思っていた。

「今食べないならご飯下げるよ」という夫の声かけにも、「どうせ息子は食べなくてもお腹すくタイプじゃないし、どっちかというと困るのは食べてほしい私なんだけどな」なんて思っていた。

 

 

そしてキョウリュウジャー終了。きっとご飯食べたいとは言わないだろうと思ってた私の予想に反して息子は「ご飯食べたい!」

なんだ食べようとしてるじゃん、と私は少し嬉しかったのだが、旦那の反応は「さっき食べなかったから、本当はだめなんだよ。

もう、しょうがないから出すけど自分ひとりで食べてね。」と厳し目の対応。

いつもご飯を進んで食べない息子に対し、私はつきっきりで食べさせてあげてるけど、今回は罰として一人で食べさせることにしたようだ。

 

泣き続けこと30分。本当に辛かった。

「ママー!」と絶叫する声が聞こえると、手伝ってあげたくなる。

けど下の子の寝かしつけの時間に差し掛かり、別室へ。

隣で応援することもせずひとりきりで食卓に座る息子。(一応旦那は遠くから見守っている)

 

 

本当はこのとき、あまりに息子が泣くものだから救いの手を差し伸べたくなって手伝おうとしてしまった。

それを旦那に「自分にまかせてくれたんなら余計な手は出さないで」と厳しく言われる。

「まだ二歳なんだからさっき食べなかったつけが来てるなんてわからないんじゃない?」と言うも「いや、わかる年でしょ。自分で食べることもできるんだから自分でやらせないと。」

「気持ちを受け入れたらいつか自分で食べるんじゃない?」

「そうやってきて食べるようにはなってないじゃん」と口論してしまう。

結局最初に行ったとおり、今回は旦那に任せる、ということにして、私は部屋をあとにした。

 

 

そうして1時間ほど立った頃に下に降りるとなんと完食!

どんな魔法を使ったのか、どんな声がけで食べたのか気になったので旦那に尋ねると自分で食べたよ。の一言。

 

 

喜ばしいことである。いつも一人で食べきれなかった息子が自分の手で食べたのだから。

しかし、少し心がもやもやしているのは「私の方針が間違っているから息子は何もしなくなってしまった」と突きつけられているように感じたから。

 

 

このあと家族で少し遠くにお出かけをしたのだが、道中子供は車で寝てしまったので、この件について二人で会話。

 

「今まで私が手伝うせいで食べなかったのかな。自分でやろうとしないのは私の育て方が悪いせいなのかな。」

 

以下旦那の言葉。

このやり方が正しかったかは正直わからない。自分で食べな、って言って様子を見ていた

けど、結果息子は食べたから良かったけど、食べない可能性もあった。

ただ、今までと違う対応はできたと思ってる。

息子に「自分で食べられるよ!」って言っておいて手伝ってしまうのは、まるで息子に自分でできないって言ってるようなもんだなと思って。

そこで手伝うのはなんか介護してるみたいだなって気分になった。

息子からしたら、「どうせ、食べなければ手伝ってくれる」ってわかってるんだよ。

だからそうはしなかった。選択肢を与えて、気づかせて、今食べなければこうなるよ、ってことをわかってほしかった。

選択肢を見た上で自分でどうするか選んで、選んだ結果自分に降りかかることは責任を持って自分で受け止めてほしいと思った。

 

 

確かこんなようなことを言ってたと思う。正直、私はここまで考えて行動できていない、ということに悔しさと恥ずかしさが募った。

日々、下の子と上の子を見ながら家事を終わらせることに精一杯で、「いかにその場をストレスなく収めるか」ばかりを考えてしまったように思う。

きっと、知らず知らずのうちに息子が怒らず穏便に事が運ぶやり方ばかりとってしまっていたのだ。

結果、ご飯も着替えも私が手伝ってしまい、自分でやってみるという機会を奪い続けてしまったかもしれない。

 

 

もちろん、旦那もこのような対応を常に私にやるように求めている訳ではない。

時間をかけて、ときに叱りながらできるまで待つことは、二人共が家にいるとか、時間的に余裕があるときなどでないと難しいこともあるからだ。

でも、ときにこうやってどんなに時間がかかっても、家事を後回しにしてでも、伝えなくてはならないことがある。

 

 

「もう、ただ要求を満たしてあげるだけの育児は終わったんだね。」

育児のフェーズが変わったことを私達夫婦は痛感した。

おむつをかえ、授乳をし、泣けばあやし、絶対的安心感を与え続ける…だけではなく、将来この子が、自分の力で生きていく力を育てないといけない。

駄目なことは駄目と伝え、自分でできることを増やせるようアシストする。

 

子供がレベルアップしていくと同時に私達親もレベルアップして行かないと、と気付かされた日であった。

 

旦那の話す言葉はどれも私には正しすぎるほど正論で、正直正論すぎてそれが少し辛い時もある。

それを受け止められない自分がちっぽけに感じるからだ。

しかし、今回の件を話していて、旦那が、これで正しかったのかはわからない、って言っていたことが少し救いだった。

旦那も全てにおいて正解を知った上でやっているわけではない。

手探りのなか、考えて試行錯誤しているのは誰だってそうなんだ、そう知ったことはすごく救いだった。

 

息子がご飯のあと、「ご飯頑張って食べて偉かったね、さっきみたいにこれからも食べようね」って言ったとき曇った表情をしていたことを旦那自身、ちゃんと気づいていた。

普段は褒めるがベースの育児だから、よっぽどこれぐらい叱ったところで、自信をなくすなんてことはないと思うが、息子のありのままの笑顔を失わないバランスで叱っていきたい。

 

 

いつか夫婦で教育について話したとき、「将来息子に、どんな人になってほしい?」と聞くと、旦那は「自分で考え、行動する人」になってほしいといっていた。

 

旦那自身が職場を独立するとき、周りの反対する声もあったが、親は一切反対しなかった。だから、たとえ周囲の人が息子の考えに反対しても、自分たち親だけは息子の選択を尊重したい、とも。

きっとそんな経験や彼の人生が、「自分で考えて選択し、行動する」ということの大切さにつながっているのだろう。

 

子供に多くのことを求めてしまいそうになるが、将来息子が自分の選択に責任を持って、自分で考えて行動する、そんな力が備わってくれていれば、それ以上言うことはないのである。親はその選択を後ろから見て、必要なときサポートすれば良い。

 

日々目の前の短期的なことに気を取られ、その場しのぎの育児になってしまいがちだが、定期的にこうやって旦那と子供への想いや教育方針を話し合う場を作りたいと思った日であった。

 

子供は可愛い。でも、いつまでも手を差し伸べるのは、愛情のようでそうじゃない。

手をかけているようで、本当は一時的に楽をしているとも言える。

そう、手伝ってしまうほうが、実は子供も親も楽だからだ。

でも忘れてはいけない。失敗する機会、自分で考える機会は何にも代えられない大切な経験だということを。

 

 

うちの息子は自分でやりたい!と言うことももちろんあるけど、着替えや食事を自分でしたいと言って怒ることは殆ど無い。

どちらかというと、やってもらいたいことのほうが多いタイプだ。

だからといって、当たり前に手伝い続けることは、自分でできるようになる機会を伸ばしてしまう可能性がある。

突然一人でできるようになることはないとしても、少しずつ自分で挑戦したくなるような声がけを気長にしていこうと決意した、そんな日であった。

プロフィール

子育てママ
子育てママ
2歳の息子と0歳の娘を育てる子育てママです。

ネット、雑誌、書籍などで、子育ての情報収集するのが、いつのまにか日課に。

とはいっても、基本はマイペース。モットーは「おおらかな子育て」です!



最近の関心事は節約!

子どもと日々の暮らしを楽しみつつも、いかに家計を無駄なくコンパクトにできるかを研究中♪

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP